浅草世界館は、1956年(昭和31年)に浅草六区の新劇会館の地下に開館し、昭和の映画黄金期から平成に至るまで、多くの映画ファンに愛されてきた映画館です。
当初は社交喫茶「サロン人魚」として運営されていましたが、後に映画館へと転換され、昭和40年代には成人映画専門館として長い歴史を刻みました。
浅草世界館は、2012年9月25日に閉館するまで、昭和の雰囲気を色濃く残しながら、特有の趣を持つ映画館として親しまれていました。
浅草世界館の特徴
浅草世界館は、成人映画専門館として、多くのピンク映画や邦画のエロティック作品を上映してきました。
開館当初は成人映画を専門とせず、一般映画を上映していましたが、昭和40年代後半に成人映画館へと変わり、以降はピンク映画を中心に上映する映画館となりました。
映画館の構造は、他の映画館と比較して非常にシンプルでした。
入口から劇場までの設計は簡素で、狭い階段を降りて劇場内に入ると、左右に6席ずつ、前後に10列ほどの座席が並ぶ縦長の場内が広がっていました。
場内の座席はゆったりとしており、シートの座り心地が良かったため、映画を鑑賞するだけでなく、仮眠を取るために訪れる客も少なくありませんでした。
スクリーン横にはトイレが設置されており、昔ながらの映画館の設計が感じられる場所でもありました。
場内の雰囲気も独特で、ブザーが鳴って上映が始まるシステムが採用されていました。
特に印象的なのは、上映前に表示される「禁煙」のスライドと、上映中に煌々と光る禁煙サインでした。
これは、かつて喫煙が一般的だった時代の名残であり、場内に残るタバコの焦げ跡がその証拠となっていました。
浅草世界館の常連客と独自の文化
浅草世界館には、独特の客層が集まっていました。
平日でも多くの常連客が訪れ、特に年配の男性が多く見られました。彼らはしばしば同じ席に陣取り、朝から晩まで映画を鑑賞する光景がよく見られました。
また、浅草世界館では、ピンク映画の上映に合わせて、主演女優や監督が登場するトークイベントが行われることがあり、これには熱心なファンが集まりました。
さらには「ピンクツアー」というユニークなイベントもあり、映画鑑賞後に近隣のカフェで監督や俳優とお茶会を開くという形式で、映画ファン同士が交流を深める機会も設けられていました。
一方で、浅草世界館は時間帯によってはゲイの観客が多く訪れることでも知られていました。
観客の中には頻繁に席を移動し、他の客との交流を目的としている人々も見られました。
これにより、場内では暗黙の棲み分けが行われていたようで、特定の席やエリアに集まる人々がいたことが報告されています。
このような特徴から、浅草世界館は、単なる映画館ではなく、多様な人々が集う場所として、映画以外の側面でも興味深い場所でした。
浅草世界館の最後の時期と閉館
2012年9月、浅草世界館は建物の老朽化に伴い、閉館することが決まりました。
閉館直前には、多くの常連客や映画ファンが訪れ、長年愛されてきたこの映画館との別れを惜しみました。
特に、フィルム上映が主流だった浅草世界館のような映画館は、デジタル化が進む現代においては貴重な存在でした。
フィルム上映ならではのノスタルジックな映写機の音や、フィルムによる映像の味わいが、多くの映画ファンにとって特別なものとなっていました。
また、浅草世界館が閉館することで、浅草六区から成人映画館が消えるという歴史的な瞬間でもありました。
浅草六区にはかつて数多くの映画館が軒を連ね、娯楽の中心地として栄えていましたが、テレビや観光産業の発展により、その役割は次第に変わっていきました。
浅草世界館もその流れの中で、最終的には閉館せざるを得なくなったのです。
浅草世界館まとめ
浅草世界館は、浅草六区における成人映画館として、長い間多くの人々に愛されてきた映画館です。
シンプルな設計と独特な雰囲気、常連客によるコミュニティの形成、そしてピンク映画やトークイベントといった映画館ならではの体験が、多くの映画ファンにとって忘れられない思い出となっています。
閉館後も、浅草世界館の歴史とその文化は、多くの人々の記憶に刻まれ続けています。
映画館としての役割を終えた今でも、その場所が持っていた独特の空気感や、訪れる人々が交わした思い出は、浅草六区の映画文化の一部として今なお語り継がれています。